エピチャン

2010/12/28

前回、いわゆる「訳のわからない」文章を書いて早一ヶ月半。だいぶ空いてしまった。
世間は師走とかいうアレですね。
この間、師走の勢いに便乗した慌しい自転車に轢かれるというハードラックに見舞われたけど、
僕は元気です。とても。
もうブログにアクセス解析とか付けてないしフィードとか誰が見てるか(或いは誰ひとり見てないか)
全くわからないのだけど。見てくれてる暇人がいたらありがとう(笑)。よいお年を。

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最近、金を使ってる。それも、すごく使ってる。
小説みたいに「すごく」の下に「、、、」と打ちたいくらい使ってる。
あの機能、ブログにも付けてほしい。

最近、ストレスのはけ口というか、その標的(ターゲット)みたいなものが「買い物」になっているらしい。
早い話が、散財。
僕は昔に比べると今とても健康なんだけど、割とストレスは蓄積されているらしくて、
今はそのストレスをはらす術(すべ)が「高額な買い物」になっている、という訳。
それも、高ければ高いほどいいらしい。
それは一種のダーツゲームのようなイメージで、ダーツボード(まと)の中心ほどスコア(金額)が高く、
手持ちのダーツでそれを撃ち抜く(高い金を支払い物品を得る)ほど僕の満足感は満たされ、
結果ストレスの解放となる。そういうシステム。
非常に悲劇的でデカダンとも取れるけど、僕はヨシとしてる。ダーツボード以外は誰も傷つかない。
財布だって軽くなって身軽になれるじゃないか。こういう時、僕は楽観的な人間だなと思う。
或いはただのバカなのかもしれない。今のところ、それならそれで構わない。
ここ数ヶ月でよくわからないままフィーリングと勢いで買ったものが一体総額いくらなのか、
無論、計算出来る筈もないけど。

そもそも僕はこれまでの人生の中で、あまり自分のためにお金を使ったことがない。
数年前、僕が心底愛した恋人が欲しがったルイ・ヴィトンのベッドフォード(16万)をプレゼントしたりもしたけど、
自分に対してそのような高価な物品を購入することはまずなかった。
あまり自分に物質的投資をしない人間なのだと思う。旅行には惜しみなく使ってたけど。
イタイ発言かもしれないけど、これまで僕は自分ではなく恋人のためにありったけの金を注ぐというのが
自然な金の使い方、というかある種の行動規範だったので、
恋人関係「彼氏-彼女」という取り決めに対して自分の中にアンチを感じ始めてからは、
お金を使うポイントを失ってしまったのかもしれない。
でも、意外と悪くない。有意義だと解釈している。
ゲームを楽しむように今はショッピングを楽しんでいる。29にして人生初の価値観。

あと、こういうところで言うのはすごいイヤラシイかもしれないけど、
これはずっと僕が書きたかったジレンマでもあるので、この際書く。書いたれ。

最近、すごい親にお金をあげてる。
僕は経済的な事情もあって14の頃からアルバイトをしていて、それ以来ずっと親にお金をあげてるんだけど、
多分今、人生で一番あげてる。母親にこっそりと。
最近、家業がイマイチ伸び悩んでて、ぶっちゃけ家計がかなり苦しいらしい。
親の表情を見てると、その余裕の欠如はたやすく察することができる。
だけど僕は、そんな金銭の贈与行為を親孝行などとは微塵も思っていなくて、むしろ賄賂くらいに思ってるし、
「金額」で施せるものの全ては優しさなどではなく、単に「上から目線」だと解釈している。
極論と言われるだろうけど。
だから親にお金をあげるのはすごく哀しい。感謝されたりするのはもっと哀しい。
金銭の贈与に対して、母親に「ありがとう」なんて絶対に言って欲しくなくて、
だから出来ることなら気付かないように黙って銀行口座に振り込みたいくらい。
涙が出そうになる。

これは自論だけど、優しさって本来、もっとなんの役に立たないものだと思ってる。
何というか、たとえばそこにわんわんと泣いている少女がいたとして、
その少女にしてあげられることと言ったら、ぎゅっと抱きしめてあげることだと。
そういう役に立たない温もりみたいなものを、僕は「優しさ」だと思うんですよ。
お金で解決することではない。それは力を利用した強さの誇示に変わる、と。思うのです。
僕が本当に愛するものに施したいものは、本当の優しさなんですよ。
それは僕が本質的なる「本当の優しさ」を、愛する人に求めるからなのかもしれない。
贈与としてのお金なんかクソ食らえ。ケツ拭く紙なら間に合ってる。僕は要らないです。

という具合に、お金の使い方が完全に迷走している2010年下半期がもうすぐ終わる。
因みに次に買おうと思ってるのは、iPad です。
なんか無理やりまとめた感。

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