エピチャン

2011/02/06



もう随分昔に、一度だけ寝た女の子のことを書こうと思う。

昔、一度だけ寝た女の子がいた。
その女の子は僕の着ていたシャツや下着を洗濯してくれたのだけど、
その時の衣服の香りを、僕は今でもよく思い出す。
その子の住んでいるところや、話したことや、どんなセックスをしたかなんて、もう何一つ覚えていない。
ただその曖昧な芳香だけが、僕の中で、かつて彼女が確かに存在したことを微かに肯定している。

彼女のことを思い出してみる。
はじめて彼女に会ったのは、とある街の CLUB だった。
怪しげな赤照明の階段を潜った地下室には、僕たちの秘密の遊び場がある。
幻想的なメロディーの中で、みな踊る。
それぞれの孤独をかき集めたダンスフロアには、悪意のないアナーキズムが密やかに息づいていた。
七色のネオンが解き放たれ、ささやかなカブトムシの香りが立ち込める。
僕はビールを飲んでいた。
ふと気付けば、目の前にリュックサックを背負ったあの子が、満面の笑みで僕を見つめていた。
何を話したかなんて、さらさら覚えていない。大した話はしていない。
酩酊した僕らは、別れ際にハグを交わした。

次に彼女に会ったのは、古いマンションの一室だった。
うだるような夏の暑さの中で、彼女の部屋のソファーに座り、僕らはぬるいビールを飲んだ。
暗がりで見えた彼女の足には、名前も知らない花柄のタトゥーがチラリと覗いた。
彼女は初めて会った頃よりも前髪を綺麗に切り揃えていて、
その表情には何処となく、幼い頃に出会ったことがある少女のようなあどけなさがあった。
タバコを吸わない僕の前で、彼女は申し訳なさそうにタバコを吸った。
僕らはまるで動物たちの織り成す一筋の物語のような、
互いの意思とはまるで無関係な呼応のように、寄り添い、キスをし、セックスをした。

いつか彼女に、あの香りの正体を訊ねたことがある。
ありふれた柔軟剤の名称を告げられて、ひどく落胆したのを覚えている。
僕の記憶は、僕によって美しく捏造されていたのだ。
事実をトレースすることが、必ずしも真実を導くとは限らない。
真実はきっと、捏造された記憶の底に眠っているのだ。
それはアンティークの首飾りみたいに大切に閉まっていて、身に付けることはしない。

彼女はもう、僕の名前すらも覚えていないかもしれない。
でもそれは僕にとって、あまり関係のないことだ。
彼女のことをここまで内省的に思い出したのは初めてだし、色々なことに気付けた。
こうして僕は、重要なことに気付くのが極めて遅すぎるし、
気付いた時にはもう何もかもが手遅れになっていることが多い。或いは、それが全てだ。
だからせめて、冷凍庫の奥底に眠るアイスクリームを解凍するように記憶を引っ張り出しては、
もう僕のことを忘れてしまったもの達のことを書いている。

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この文章は、このブログのとある読者にインスパイアされ、書くことを思い立った。

2 件のコメント:

  1. いいですね。
    こういう一度だけ会ったことのある女の子ほど、美しく思い出されるような気がします。
    こういう子からもらった手紙があって、かなり時間が経った今も怖くて開けられずにいます。

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  2. ありがとうございます。
    恐縮ですが、僕はメメさんの言葉にいつも共感というか、共鳴しているような気がします。

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